Now Loading...

Now Loading...

日本で唯一氷温熟成ラーメンが食べられる店「玄咲」

玄咲の歴史

創業昭和47年から、玄咲の歴史は始まります

好きなラーメンを自分の仕事にしよう…

大型高速洗車場話は40余年前にさかのぼります。それは私が34歳で高速洗車場を経営し始め、10数年が経った頃のことです。

当時、花形産業としてもてはやされていた高速洗車場ですが、この景気がずっと続かないことを予測し、この先は何か良い仕事があればと、いろいろ思慮しておりました。

そんな時、「ここは札幌ラーメン発祥の地。大好きなラーメンを仕事にしよう!」と思い立ったのです。これが玄咲ラーメンのスタートです。

来る日も来る日もラーメンの毎日

旧店舗ラーメンを仕事にしようと決意して最初にしたことはラーメンの食べ歩きです。札幌はもちろんのこと、北は稚内から釧路・苫小牧…北海道中食べ歩きました。食べ歩きが終わるまで3ヶ月もかかりました。

来る日も来る日もラーメンの毎日です。一日に10杯は食べました。

当時は47歳です。さすがに医者からもうこれ以上食べてはダメですとドクターストップがかかりました。風呂に入ると体中から脂が染み出てくるようでした。食べたラーメンはどれもこれも脂っこいものばかりで、化学調味料の味も気になりました。これではダメだと思いました。これからはお年寄りもふえるだろう。もっと体にやさしい、ヘルシーな本物指向のラーメンを作りたい、そう思うようになりました。

当時、札幌ラーメンは脂っこいラーメンという固定観念が根付いていました。それをむしろ北海道ラーメンとして位置づけて自分の目指すラーメンを作っていこうと決意しました。

人との出逢い…そして、氷温熟成との出逢い。

ラーメン 人との出会いとは不思議なものです。
洗車場をやっていた関係で「氷温という技術」を知る機会がありました。「氷温熟成の装置」を持っている会社が以前の取引先だったのです。「氷温」とは一言で言うと氷点下でも食べ物が凍らずに生き続けることです。この温度域の「氷温域」で食品を熟成するとうまみやコクが増し、コシが出ます。この「氷温域」でラーメンの麺を熟成し他のどこにもないオリジナルのラーメンを作ろうと考えました。この「氷温」を開発した鳥取大学の山根農学博士(社団法人氷温協会理事長)にお会いするためにずいぶん鳥取にも通いました。「氷温」は山根農学博士から教えを受けましたがラーメンの熟成の研究は自分だけで取り組みました。「自分の納得するラーメンを作りたい。」ただそれだけが願いでした。
ラーメンに関しては素人ですから職人を雇い、来る日も来る日も研究・開発に明け暮れました。「氷温」という言葉が普通の人々に知れ渡る以前の昭和59年の話です。今でこそ氷温の冷蔵庫など一般の人々にも知られていますが、当時は全く理解されませんでした。ずいぶんと笑われ又、バカにされたものです。「いったい何を考えてるんだ。」とか「氷点下で麺を熟成するなんて無理だよ。」などと言われました。 熟成とは本来、暖かい温度で行うのが普通でしたから。プロの麺屋さんにも皮肉まじりに言われたものです。「小麦の配合から自分でやらなければ自分の新しい麺なんてできないよ。」と。そして、小麦の配合からまた勉強しなおすことになりました。温度を変え、熟成の時間を変え、何度も何度も試しました。 麺が完成した後はスープはどうだろう、チャーシューはどうだろう、野菜はどうだろうとまた格闘の日々でした。すべて「氷温」で試しました。どんどん「氷温」にのめりこんで行きました。あと先考えず、ただひたすらに「体にやさしく、おいしいものを作りたい」という信念があるだけでした。体にやさしくおいしいものを作ればお客さんが自然に来てくれる。お客さんがおいしいものを食べて喜んでくれたら、結果は後から付いてくる。そう信じていました。麺が完成して「氷温」の開発者である山根農学博士が当社にいらっしゃり、麺を手にしてしばらく見つめ「これはすごい。これだけの氷温麺が出来たのは玄咲が一番だ。」と絶賛され「氷温食品」という認定を受けることができました。

場所は札幌の月寒。24席の小さな店が始まりでした。

昭和60年の店舗外観昭和60年1月7日に今の本店の場所に24席の小さなお店でオープンしました。

場所は札幌の月寒という所です。以前経営していた大型洗車場の跡地です。しばらくしてデパートに置いてもらって売りたいと考えましたがどこも取り合ってはくれませんでした。
「氷温熟成」を理解して売ってくれる人は誰もいませんでした。

人との出会いは一期一会といいます。あるデパートの当時食品担当をしていた方と知り合う機会がありました。
「氷温熟成の麺」をご紹介したところ、「これはすばらしいラーメンだから是非うちのデパートで売ってみたら。」と言われました。

氷温熟成麺のとあるエピソード

ラーメン また、日本で始めてあの有名な「チキンラーメン」を作った田中博士にもお会いし、その方は、「この麺はすばらしい。
あんたよくこんな麺を作ったね。」と言われました。
「化学、やってたの?(化学を学校で勉強したの?)」と聞かれ、私は素人ですよ、と答えると「たいしたもんだ。これはいけるよ。」と言われ、これで自分のやってきたことが正しかったんだと思い、自信を持つことができました。

開業して3~4年経ったころからお客さんにご年配の方々が増えてきました。
ご年配の方々は脂っこいものが苦手です。そのご年配の方々がこう言いました。
「わしらの食べれるラーメンはここだけだもねぇ。このラーメンしか食べれないもねー。このラーメン、無くさないでねぇ。」と。 うれしかったですね。あぁ、わかってもらえたんだなぁ。
ただひたすらに「体にやさしく、おいしいラーメン」を追求してきてよかったんだなぁと思いました。
でも、もっともっといいものを作りたいと思っています。いまだに満足ということがありません。

「玄咲」とはシロウトがクロウトになりたい。クロウトになって花を咲かせたい。

「玄咲」とは 私は、職人たちにもよく話します。ずっと本物でいてくれと・・・。

当店の名前「玄咲」の意味はシロウトがクロウトになりたいな。
クロウトになって花を咲かせることが出来たらいいなという願いを込めました。

ただひたすらに「体にやさしく、おいしいラーメン」を追求してきたラーメン専門店「玄咲」です。みなさまにおいしく喜んで食べていただけたらうれしいです。

行き着いた「氷温熟成ラーメン」

体にやさしく、おいしいラーメン 私共が心血を注ぎ、ただひたすらに「体にやさしく、おいしいラーメン」を追求した結果、玄咲自慢の「氷温熟成ラーメン」が出来ました。たくさんのお客様のご支援と、数多くの方々との出会いがあったからこそ、ここまでくることができたと考えております。洗車場を経営していた時代から、どれか一つでも出会いが欠けていたら、今の「玄咲」はなかったものと思っています。

なかでも当時ご高齢のために店を閉められていたラーメン店が評判のラーメンを出していたと聞きつけ、ご主人にそのラーメンの作り方を教えていただくために何度も何度も足を運んだことが思い出されます。
ご自分の兄弟、息子にも教えていないものを赤の他人に教えるわけにはいかないと何度も断られましたが、熱意が通じたのか、後には丁寧にラーメンの作り方を教えて下さいました。

人との出会いは一期一会です。
今までにお会いした多くの方々のご恩に報いる為にも、ただひたすらに「体にやさしく、おいしいラーメン」を作り続けていきたいと思っています。もっとおいしく、本物で居続けるために誠心誠意努力したいと思っています。
今後ともラーメン専門店「玄咲」を宜しくお願い致します。